【長く読んでられない人向けこの記事のまとめ】
・近年の過剰な手拍子は、コロナ禍の「声出し禁止」が生んだ行動規範の刷り込みや、客層の年代によるノリのズレ、フェスの大衆化などが複雑に絡み合って起きている。
・モッシュやダイブと違い、手拍子は「音」が出るため、周囲の鑑賞環境を強制的に侵害する「逃げ場のないノイズ」になり得るリスクを孕んでいる。
・しかし手拍子そのものの否定ではない。名曲には手拍子した方がいい、そういう「最高の瞬間」があるからこそ、思考停止の義務や同調ツール(観測気球)として消費せず、ここぞという瞬間のために「楽器」として手を温めておくべきだ。
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いつからだろうか。ライブハウスやフェスの客席で、「静寂」や「純粋なグルーヴ」に出会える機会が目に見えて減ってしまったのは。
いや、
ライブマナーって笑
ライブにマナーって笑
みたいな冷笑を2010年ぐらいには目にしてたので、「ライブとは自由な空間」とか言われちゃおしまいよ。でも人は蹴らないほうがいいし、人の耳元で歌ったら駄目みたいなのは存在するよね。
と前置きする
イントロが鳴った瞬間から、ステージからの全力で手拍子を煽る。 メロコアバンドなどでは、そういう曲もある。
ただ、最近のロックバンドの一曲目は手拍子から!が定番化してるように見える。
そうなってしまえば後は、煽りがあろうがなかろうが、判で押したように巻き起こるクラップの嵐。転調しようが延々と鳴り止まない手拍子。
サビですらまだしつこく聴こえてきたりする。
耳を澄ませば、本来聴こえるべきドラムパターン、サビ前のフックになるブレイクすら、容赦ない不揃いな打楽器の音に掻き消されている。
現代のライブシーンは今、深刻な「手拍子の過剰供給」に陥っているのではないか。それも、音楽への衝動とは程遠い、歪んだ形の。
### 1. コロナ禍の「遺品」と、若年層への刷り込み
この過剰クラップの背景を語る上で、2020年からの数年間、世界を覆った「声出し禁止」の制約を無視することはできない。
NELKEやWurtS、Aoooといった、まさに2020年前後から頭角を現した気鋭のアーティストたちの現場を観ると、その影響は顕著だ。彼らのファン(というか、自分も好きだ)層の多くは、ライブという人生初の初期衝動を
「声を出すな、手を叩け」という厳格なルールの中で迎えた世代である。
彼らにとって、手拍子は単なるノリではない。「ライブとは、最初から最後まで手を叩いて一体感を得るもの」という、強烈な行動規範の刷り込みなのだ。
アーティスト側もそのカルチャーを前提としてステージを構成し、客席を煽る。結果として、曲のダイナミクスや文脈を無視し、ただ「常に誰かが手を叩いている」という平坦で、どこか義務的な空間が完成してしまう。
現代の気鋭、WurtSのライブにおける「ウサちゃん」が手を叩くパートに代表される、わかりやすいガイダンスについても触れたい。
「ライブの正解なんてナンセンス」という価値観もあるだろうが、どうしたら良いのかわからないお客さんへのガイドラインとして機能している。
ただ、大抵の客はウサちゃんが叩いてなくても叩くのだが。
また、ポルカドットスティングレイやずっと真夜中でいいのに。
などのアーティストは、観客側から出る音が
他の観客にとってノイズになることを認知しており、
特にグッズに団扇やしゃもじなどがあると、
親切にも「叩くと音が大きいので場面にあわせて叩いて」というようなアナウンスをしてくれてたりする。
するが、それでもなお、「ライブとはそういうもの」という固定観念なのか、もはや無意識なのか、
何割かのクラップ音、なんならしゃもじ音は止まない。
また、後段で述べるが、まさかロックバンドのライブで「一切の手拍子をやめるべき」などと思ってない。Aoooでも、Yankeeなど、曲中に入っているクラップ音に合わせて手を叩くのはステキなことだと思ってる。
### 2. ミドルエイジの「忘年会ノリ」という別ベクトルのノイズ
一方で、この問題は何も若い世代に限った話ではない。
例えば、Reiのような圧倒的なプレイヤビリティを持つ若手実力派の現場。ここでは、演者の若さに対して、耳の肥えたミドルエイジのオーディエンスが多く集まる、はず。
若い世代のような「同調圧力的な一体感」こそないものの、ここでも別の問題が発生する。彼らは周囲の空気を読むことなく、個々の判断で「パラパラ……」と手拍子を叩き出すのだ。
卓越したギターリフや息を呑むグルーヴをじっくりと“聴く”べきセクションであっても、彼らの手にかかれば、まるで居酒屋の忘年会かのような、締まりのない冗長なクラップへと変換されてしまう。勿論誰も悪意はない。
### 3. フェスに侵入する「手拍子だいすき民」と、大物のワンマンとの乖離
この過剰な手拍子カルチャーが、フェスというマスな空間に持ち込まれたとき、悲劇は最大化する。
顕著なのが、BUMP OF CHICKENやサカナクションといった、百戦錬磨の大物アーティストがフェスのステージに立った時だ。
彼らの単独公演(ワンマン)であれば、長年培われたアーティストとファンの信頼関係、そして楽曲への深い理解があるため、「聴くべき静寂」と「乗るべき熱量」のメリハリが美しく保たれる。
しかし、フェスに大量流入する「手拍子だいすきオーディエンス」の手にかかれば、ワンマンでは絶対に聴けないような、情緒を無視した「手拍子の嵐」が容赦なく巻き起こる。固有のライブカルチャーが、フェスの大衆化によって均一化され、ダサく平坦に消費されていく象徴的な光景がそこにはある。
### 4. 音楽への愛なき「観測気球」としてのクラップ
なぜ、彼らの手拍子はこれほどまでにノイズとして耳に障るのか。
その本質に迫るため、さらに客席のノイズに耳を澄ませてみると、極めて冷める瞬間に出会う。
彼らの中には、曲が好きで堪らなくて叩いている人ばかりではない。イントロが始まった瞬間、「とりあえず」手を叩き始めるやつらが確実にいる。そして、周囲のノリが思ったより悪く、自分に追随してこないと察するやいなや、何事もなかったかのようにスッと手を下ろすのだ。
彼らにとって手拍子とは、音楽に突き動かされた衝動などではない。自分がその空間から浮いていないかを確認するための「観測気球」であり、「同調の確認作業」に過ぎないのだ。そこには楽曲への愛も、ステージへの理解も、何ひとつ存在しない。
### 5. 誤解しないでほしい、「手拍子」そのものを否定しているわけではない
ここまで随分と辛辣に現代のクラップ事情を解剖してきたが、筆者は決して「ライブにおける手拍子」という行為そのものを完全否定したいわけではない。むしろその逆だ。あの空間における手拍子には、間違いなく「正解の瞬間」があり、鳥肌が立つほど幸福な一体感を生む装置になり得ることを知っている。
例えば、the pillowsの『ランナーズハイ』のあの疾走感。ストレイテナーの『シーグラス』のサビ前にピタッと止む手拍子。
a flood of circleの『世界は君のもの』のあのリズム。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『君の街まで』のPVのザリガニがチラつくあのパートや、
サカナクションの『セントレイ』、あるいはUNISON SQUARE GARDENの『きみのもとへ』『フィクションフリーククライシス』
どれも一オーディエンスとして、手拍子パートの一体感が好きだ。
これらは楽曲のDNAやステージの演出として明確な「フック」として機能しており、オーディエンスが音楽と正しく対話した結果生まれる、必然性のあるクラップである。
私たちが愛したロックバンドの現場には、いつだって「ここしかない」という奇跡的な手拍子の瞬間が存在していた。
### 6. 本当の問題は、思考停止した「インフレ」と「逃げ場のないノイズ」
では、なぜ今これほどまでにライブハウスの手拍子に息苦しさを覚えるのか。
それは、手拍子の「過剰さ」が、その奇跡的な価値すらも貶めて(インフレさせて)いるからだ。
ここで、ライブハウスにおける他の「ノリ」であるモッシュやダイブと、手拍子との決定的な違いについて考えてみたい。
モッシュやダイブといった肉体的なアクションは、嫌ならそのエリアから離れ、物理的に「距離を取る」ことで回避できる。空間を切り分ければ、自分の鑑賞環境を守ることは可能なのだ。
しかし、手拍子は違う。手拍子は「音」が出る行為なのだ。
演者の繊細なダイナミクスや、じっくり聴きたいカッティングが鳴っているその瞬間に、隣で、あるいは背後でプラスチックな打音が響けば、どれだけ距離を取ろうとも耳を塞ぐことはできない。逃げ場がないのだ。だからこそ、文脈を無視した過剰なクラップは、他者の鑑賞権利をダイレクトに侵害するノイズになり得る。
問題の半分は、オーディエンス側の思考停止にある。しかし、もう半分の責任はステージ側――つまりバンド側にもあるのではないか。
ライブの序盤、あろうことか3曲連続で、しかもAメロから安易に手拍子を煽るような極端な場面に出会うたび、言いようのない落胆を覚えてしまう。それは音楽のダイナミクスを信じることを放棄した、安易な「盛り上がりの捏造」に他ならない。演者側が思考停止して手を叩かせ、客側も「とりあえず叩いとけ」とそれに倣う。メリハリを失い、逃げ場のないノイズの暴風雨となった空間は、もはや演出でも一体感でもない。
### 7. 手拍子という名の「楽器」を、僕たちはどう鳴らすべきか
手拍子とは、観客が客席からステージに対してダイレクトに鳴らすことのできる、最も原始的で、かつ強力な「楽器」だ。
楽器であるならば、そこには休符があり、強弱があり、何より「演奏する意志」がなければならない。周りの顔色を伺うための「観測気球」としてなんとなく叩いたり、「ライブのお作法」として、安易な一体感の獲得のために1曲目から延々と叩き続けたりするものではないはずだ。
「静寂」を恐れてはならない。音が止まる瞬間、あるいはベースとドラムの静かなグルーヴにじっと耳を澄ませる時間があるからこそ、ここぞという瞬間に鳴り響くクラップが、ライブの景色を一瞬で変える爆発力を持つ。
僕たちは、思考停止の過剰供給に身を委ねるのを、もうやめにしないか。
本当に素晴らしい音楽に出会ったとき、その牙を剥く(手を温めておく)べき瞬間は、いつだって僕たちの耳と心が教えてくれるはずだ。