「ジュブナイル」を「超える」

昔「依存ではなく共生」と表現したとき、
その言葉を気に入ってくれた人もいたんだけど、
今思うことはそういう表面的な言葉がどうのではなくて、
時には隣にいて、時には頭の中で響いて、心の中に根付いている。


そういうもんなんだろうな、って。


the pillowsに出会わなかったら、19歳だった俺は
どういうカタチになっていたんだろう?


ずっとこの半年、未来について悩んで迷って挫けて立ち上がってきたけど、
今は以前ほど押しつぶされそうなプレッシャーも、言いようのない不安も
ずっと薄くなっている。それは自身の成長であり、
支えてくれている周囲のおかげであるんだけど。

その中に音楽もまたあるなー、なんてことを・・・思ったね。


依存でも共生でも享受でも二人三脚でも添い寝でも、
好きな表現でいいんだよね、こんなもんはさ。


今日は頭の中をGRAPEVINEの「超える」と
ジュブナイル」が流れ続けていました。

何かを堪えられない人間はブレーキのない乗り物と同じで、
ただ加速している時にしかその存在が示せず、
あとは空気抵抗で止まるのを待つしかなくなる。


反省というのは凹むことを指すのではなく、
自身の道程を振り返り、正していくことにあるはずだ。


それでも許されるのかもしれないけど、ジュブナイルの間は。
あるいはモラトリアムと呼んでも良い。


問題は、周囲までジュブナイルに生きていないということぐらいか。

抱えたままで僕らはどこをみてんだろう
遠くをみてても気付かなかった
(GRAPEVINE/ジュブナイル)