the pillows 25thAnniversary Don't forget today! TOKYO DOME CITY HALL

書き出しをどこからにするかということでまず悩んでしまうが、
僕が the pillowsに出会ったのは2002年の暮れのことだった。



高校生の時からRide on shooting starという曲が好きで、
何度も何度も聴いていたのだが、当時の僕はアーティスト単位ではなく、
曲単位で音楽を聴く人間だったので(それでもサザンとかスピッツはよく聴いてた方だが)
やはり本格的な出会いは2002年の冬である。



何故か俺の答えを写した人間が単位を取得して僕が落ちるという事件があり、
かつ試験日が台風で流れたので再試験期間に補填した都合上
再試験なしで後期に必須講義を持ち越すというかなりバッドな状況だった。


そこで仲良くなった男が当時免許を取り立てであり運転したい最中だったこと、
冬の寒い夜なので送ってほしいなあという気持ちが僕に強かったこと。


それらを総合して僕は夜のドライブがてら、金山駅まで
送り届けて頂いていたのである。

その時期に僕は東京スカパラダイスオーケストラASIAN KUNG-FU GENERATION
BUMP OF CHICKENミッシェル・ガン・エレファントと今でも好きな
素敵なアーティストたちと次々と出会いを果たしていく。

the pillowsと再開を果たしたのもその時だった。

Thank you, my twilightというアルバムは本当に衝撃だった。
どれもとてもカッコ良くて、特に「バビロン 天使の詩」などは
どう調べてもタイアップがないということに当時は酷く驚いた。


そして知った、別にかっこいい曲が売れているわけではないと。
僕の中に「崩壊と誕生の音」が鳴り響いた瞬間だった。


当時から僕はWebに日記を書いていたわけだが、
それまでオタク系の内容だけだったものに
いきなりピロウズピロウズという名前が踊り始める。

シングルが出るというので、
CDショップで予約なんかをしたりする。

ライブをやるというので、当時矢井田瞳のライブなどに
誘ってくれていたまるきちを誘って名古屋クラブクアトロへ足を運んだ。

ターミナル・ヘヴンズ・ロックツアー。

日頃からライブのマナーみたいなことに煩い自分としては
恥ずかしい話だが、殆ど合唱していたような気がする。

その日聴いた曲の殆どが好きになった。
特に「サリバンになりたい」が気に入ったが、
まさか次にライブで聴けるのが6年後だなんて思わなかった笑


文章を綴る場所がブログ(はてなダイアリー)へ移行したことで、
他に同じ話題を綴る人を調べられる機能により横のつながりが出来た。

特にピロウズ15周年の時の記事が良かったんだと思う

http://d.hatena.ne.jp/fuga_maito/20040917#p1


ただ、当時名古屋クアトロも埋められないピロウズだったので、
ほとんど関西と関東の仲間たちではあったのだが・・・

mixiが全盛期になってもその時の人たちとの繋がりは緩やかに続いていて、
No substanceというピロウズしか流れないDJパーティ
(未だに1バンドだけが流れるというのは珍しいし挑戦的だと思う)
にも参加したりなんかして、その頃にはすでにピロウズというのは
人生の軸と化していた。良くも悪くもと言うか、病める時も健やかなる時もと言うか。


中野区(当時山中さわお在住ということでテンションあげてた)の
仮住まいから新宿のオフィスへ向かうときのBGMはMY FOOTであったし、
その時に留年してたまるきちが遊びに来たのはMY FOOTツアーファイナルのためだった。


社会に出て、納得行かないことがあって、さっさと会社を辞めた時も、
メンヘラ女子をほっとけなくて、構っているうちに泥沼に沈んだ時も、
ライブに誘ったりCDを貸すみたいな直接的な意味でも、
その思想の裏に存在していたという間接的な意味でも、

ピロウズは常にいた。いてくれていた。

2009年。今でも忘れられない年。



それまで出会ったバスターズの中でも一番仲良くなった人と・・・
出会ったのはそれより数年前なのだけど、
京都へ別バンドのライブに行った時に遊んでもらってから
本当に加速度的に仲良くなった気がする。

あんなにメールのやり取りをしたことは後にも先にもないし。

けいおん!の舞台だったり、そもそも名所旧跡が多かったり、
京都という土地が良かったというのもあるのかな?

まるきちが武道館に行けなさそうという話になった時、
僕はギリギリまで返事を待っていたのだけど、
それは彼女に譲っておけばよかったと今でも思っている(笑)


今でも武道館のライブが終わった後にダイノジ大地との
記念撮影に夢中になっていた僕を武道館入り口の
坂のところでじっと立って待ってた姿が焼き付いている。

でまあ、フジファブリック志村正彦、RADIO CRAZY、

当時の会社の社員のトラブルによる年末の予定の狂い。

全てが悪い方向に流れた。まあ、そういうことがなくても、

僕のこの苛烈な性格(多分に悪い意味で)では、

まして今よりさらに子どもだった当時では、

何ともならなかったかも知れないけど・・・

エネルギヤの

「キミには消したい過去だとしても僕には宝物のエネルギー」

という歌詞は本当に苦笑するしかないぐらい僕のことで。

そういうところがファンの心を掴んで離さないわけだが。

前置きばかり長くなったが、そういう歴史が音と一緒に心に刻まれている。

人生の半分を友達として過ごしてくれた男と、




僕が毎日綴っていたそんなブログを熱心に読んで、

イベント開催の報せを聞くやmixiなんてやってないのに駆けつけた男と。



僕が検索でたまたま見つけて絡んだことから縁が続いている東北の人と。

Twitterで出会った子と。久しぶりのやりとりから音楽で絆を繋いだ同期と。

繋がって、同じ景色を見ていられる。

勿論たくさんの幸運や偶然に助けられた。

加えて、こういう苛烈な僕を見放さないでいてくれたその人達の器も

あるってことはよーくわかってはいる、わかってはいるが。

それでも、僕がずっとピロウズが好きで、音楽が好きで、

その好きって気持ちをなくさず、嘘をつかないで。

人に迷惑をかけつつもイベントを開いて、皆で騒いで。

生きてきたことの結果、成果なんだ。

2014/10/4、朝の新幹線のゲームしながらの移動も、

物販をお願いしている間にタオルやリストバンドをホテルへ取りに行った時も、

そんな京都のあの人を視界の端で捉えて心がざわついた瞬間も、

並んでいる間にまるきちが野球殿堂の写真に夢中だった時も。

開演前に結局アリーナ組全員集まってあーだこーだセトリの話、

開演がいつも押す話、聞きたい曲、やりそうな曲の予想の話をしてた時も。

当然のごとくライブ中も。アンコール後も。

打ち上げも。東京ドーム前で無駄にはしゃいだことも。



誰かの財布が見当たらなくて全員で色々なフォローを考えてた時も。

ずっとずっとずっと、大事な時間だった。

全てが幸せとは呼べなくても、確かに僕が生きたと言える一日だった。

ありがとう。

山中さわお

 「朝目覚めたら・・・というキメゼリフを言おうとしたが・・・
  今日は10月4日です。でも、いい夜にするから、よろしくね。」

ピロウズというバンドの歴史をトピックだけ拾うと、ものすごく
 回り道をしてきたように見えるかもしれない。だが、それは違う。
 俺達は、近道をしてないだけだ。たとえ何度生まれ変わっても、
 俺達は同じ道を選ぶだろう。そういう25年でした。」

→Please, Mr.lostman

「泣かせようとしている(キメのMCである)」

 ことがわかっていても、
 抗えないほどどうしようもないほど泣いてしまう。





「ねじ曲がった時代なんて関係ない 僕らは出会った

 それが全てだろ?」






反対意見は当然あるだろうが、ピロウズの世間的な意味の頂点は5年前だった。

正直に言って、武道館のライブは本当に人生で唯一無二の凄い感覚があった。

数日間心がフワフワするあの感じが。

武道館のインパクトについてはバンドも自覚している。

その上で、それでも飽くなき音楽への思いが

自分たちにあるということを確信して、前に進もうとしている。

日々のうたの「僕は必ず落ちぶれるけど」とイコールではないにせよ、

あのうたの重みが確実に増した、そういう五年だったように感じた。

今宵、Funny Bunnyは「僕らはそれが出来る」だった。

殆どのお客さんをFCから呼んだことも関係あると思う。

プレイング・バスターズ:淳と一緒に、
良い誕生会になったんじゃないかな?

「記念日に自分から何かする方じゃないけど、
 25周年せっかくだからということで色々な企画をやった。
 付き合ってくれてありがとう。」

(鳴り止まない拍手)


「(グッと上を見て)ニューアルバム、楽しみにしてて下さい」

多分、何を言っても泣いてしまいそうだったのかなと思う。

トリプルアンコール、Advice


「お前ら帰れ!とっとと帰れ!速やかに帰れ!! ありがとう!」

笑わないでくれ。 

子どもみたいに、欲しいものに手を伸ばしてるだけなんだ、今も。