あうあーじぇねれーしょん

http://10d.blog51.fc2.com/blog-entry-24.html
月居さんの文章をこの度拝見して思うことは、

  • 一理あるということ
  • ポジティビティを感じるということ

の二点。


あと序文がシニカル、あるいはブラック・ラグーンのような
映画的皮肉であるところはとても好きですが。


で、本題ですけどヲタのマイナスなところはまあ二次元ラブとか
そういう中身もあるんでしょうが、
結局大きいのは見た目と社会性の欠如ですから、
そこさえ何とかすれば知識は宝というのは大いに賛同します。


もう一つのポジティビティ。卑屈な感情は
益々ヲタに対する「うわ、キモッ」を強めて悪循環だから。
変に誇りを持つのも不味いんですが、
自分の経験の蓄積を誇れなくて何がヲタか、と。


その上で僭越ながら意見させていただくのであれば、
確かにいわゆる普通のラブコメとは「メリーに首ったけ」は一線を画しますが、
案外メリーに首ったけが好きな女(こと映画好きと言うのであれば・・・)
はいるのではないかということが一つ。


ヒロインのキュートさで実にくだらない下ネタもだいぶ緩和されているのが
あの映画であり、そういう意味で。
バカバカしいのは一般受けするから、逆に文化系のほうがアレは引くかも


もう一つは「あたし映画『とか』好き」という言い方をする人間は
大抵そんなには映画に詳しくない
ということ。


結構数を見ててもタイトルが完全に失念していたり、
ちょっとマイナーになると「そこまでマニアじゃない」という風に
あくまでパンピーのラインを越えたくないというのが見える。
ちなみに多いと言っているだけで批判したいのではないです。


よって、この場合ヒュー・グラントが通じない恐れすらある。


「あの、何とかって俳優の出てるなんちゃらって映画が・・・」
わかるかぁ!


まあ、俺だって俳優の名前を丸々違う役者と間違えたりするけど。


逆に本当に映画が好きな女性だった場合は有効打になるのですが・・・
あるいはこの場合ならキャメロン・ディアスからチャーリーズ・エンジェル
繋げていくのがいわゆるフツーの映画好きにはいいんじゃないでしょうか。


相手がそこそこの映画ファンならバニラ・スカイでしょう、やはり。


豆知識というかトリビアみたいなものは相手が
「それがどうしたの?」って思わない線で留めるべきで、
それがうまくできれば確かに「くっだらない事でも知ってて良かったな」と
思うときは訪れるものです。


ちなみにマフィアの名前の由来とか結構ウケて俺もびっくりした。


「そんなことまで知ってて凄い」と「そんなことまで知ってるっておかしい」
この二つの分けるのは知識以外の空気を読む力だったり、
容貌だったり(顔じゃないですよ)するわけで、
それも含めてモテの要素になってくるわけですよ。


ここまで書いてて俺が言っても何の説得力も無い事に気づいた。


と言うか、多分元の話の前提としておかしいのは
ギャルと文化系女子が完全に対立した存在として考えている点。
↑これは月居さんではなくて元の文章の方がですよ


その中間にもたくさん女の子はいるので、
そういう一律的な見方自体どうなのか・・・と
昨日の時点で書くべきだったかも知れない。


さて、まあそれは「貴重なご意見を拝読させていただいてありがとうございます」
というだけの話なのですが。


あのね、話題の文章より俺が気になるのはね、
http://d.hatena.ne.jp/maroyakasa/20060409#p2
これね。

別にモテなかろうがモテようがそんなもんは人の勝手ですけれど、
空気を読めない、は不味い。
もちろん件の文章は空気を読めないことを肯定するのではなく、
一般的に言われる「空気が読めない」ことの定義に対する疑問だと思うのだが・・・


引用開始
『しかしそれでは、何の化学反応も起きないじゃねーか。』
引用ここまで


化学反応を起こすべき場面と起こして駄目な場面があるだろう。
例えばその文章に出てくる彼らが反省会じみた行為をすることさえしないなら、
無理を押してても反省の弁は出すべきだが、そうではなくて
「今はとりあえずお疲れー!!」って空気が、雰囲気が出来上がってる時に
それに水を差してまで化学反応を起こす必然性とは何か。


確かに腐食も化学反応だった気がするけど。


間が悪いとか、そういう言い方でもいいや。
意見のすり合わせ、批判、交換。
全てコミュニケーションで大切なことだ。
だけど、随時それが必要であるか否かを判断できることが
空気を読むという行為じゃないのだろうか。


みんなが盛り上がろうとしている時に
その流れに逆らって意見し、それに対して
「理解し、その上で考えを相手に伝え・・・」を
望むこと自体、正しいのだろうか。


多数派=正しいではないけれども、
多数の人間に(おそらくは)不快感を無闇に与える意味は薄いかと。
集団行動では流れや雰囲気というものが場を支配することは
ままある。


その全てが正しいとは限らないが、ある程度の妥協は
社会生活である意味において残念ながら必要だ。


妥協せずに社会生活を送るには人は孤立するしか結局無いし。


そして、他者の意見を尊重することと空気を読むことは相反しない。
意見の尊重の重要性をこの場で説くのは論理のすり替えにしか思えない。


あくまでその場にいない私は文章通りの状況であれば、
という前提でもちろん申し上げている。



空気が読める=コミュニケーション能力が高い
確かにこの図式は当てはまらないかもしれない。
だが、
空気が読めない=社会性がない
これは当てはまるんじゃないかと私は思います。


別にこの文章を書いた方がそうであるかないかまで、
私はブログだけで判断できないですけれども。